森下さんは知人の家に向かう途中、道ばたで倒れましたが、
運良く知人宅に運び込まれ、40度以上の熱を出しながらも
なんとか、助かります。
でも、大火傷の痛みは昼も夜も絶え間なく襲ってきます。
父親がぼろぼろになった母親の骨を掘り出してきて、
母の死を知った時、あまりにもの激痛で神経が麻痺し、
悲しみを感じることすら出来なかったそうです。
左の顔面、両手、両足におよぶ火傷は、動かすと痛く、膿み、
動けるようになるまで2ヶ月もかかりました。
左耳は腐って収縮し、なくなってしまいます。
その間に、おばさんが見舞いに来てくれたそうですが、
どこにも傷を負っていなかったおばさんが、
その後間もなく、黒い泡を吐きながら亡くなりました。
放射能のせいだったのです。
火傷はケロイドとなって残りました。
ケロイドは固く盛り上がり、引きつり、ゴムのようです。
手術もし、現在も治療は続いています。
半年後、学校がなんとか再会されます。
1クラスは全滅、半数は火傷、先生もたくさん亡くなられていました。
爆心地近くの他校では、2000人中1600人死亡したところもあります。
普通なら、あれほどの被害を受けつつ生き残ったのですから、
「生き残ってよかった」というところですが、その時は
生き残ってしまったことが何か耐えられないような、
「ワァーッ」と狂おしく叫びたいような気持ちだったそうです。
原爆から5年、みんなが平和を願い、新しい時代が来るのが
当然と思っていたところに、朝鮮戦争が起こります。
そこで、アメリカのトルーマン大統領は「原爆の使用も辞さない」
という許しがたい発言をしました。
「原爆さえ無ければ…」という恨みや悲願は踏みにじられました。
その後、森下さんは高校の教師になります。
2年目の夏、生徒たちと行った原爆資料館で、
展示を見た女子生徒が「怖くて今晩寝られない」と言い、
先生も黙ってしまったそうです。森下さんはショックを受けます。
原爆にあったことは自分の罪ではない。でも、
自分の与える印象が、周りの人を暗い気持ちにさせるとしたら、
私はどうすればいいのか、森下さんは不安に包まれました。
自分のからに閉じこもる日が続きました。
また、自らを高めることで醜さの不安から逃れようとしていました。
そんな中森下さんは、「風の会」というグループの人たちと
語り合ったのをきっかけに、
被爆者とそうでない人々とが心を割って話し合える場が
なくてはならない、「自分の傷はただの火傷じゃなく、原爆なんだ」、
「誰か」が原爆のことを語り、訴えていかなければならない、
その「誰か」は「私」自身なんだ!と気付きます。
その後は、広島だけにとどまらず、世界中で訴え続けられてきました。
森下さんは言います。
世界の人々の平和を願う声にも関わらず、核兵器をめぐる状況は
厳しいものがあります。核戦争による人類絶滅は、ありえないこと
ではないのです。君達は未来を生きるのです。ですから、今こそ、
私たち被爆者の志を承け継いで欲しいのです。
君達が、再び、あの真っ黒焦げの少年にならないために…。
以前にも書きましたが、今回森下さんとお会いして、
ご本人からお話を聞くことで、
『 知識が現実になる 』
ということを体験しました。
被爆者の方々は、戦後77年が経ち、ご高齢になられています。
少しでもお話を聞いてみたいと思われている方は、
出来るだけ早い時期に、お会いになられることを願います。
体験されたい方には、
広島平和記念資料館が行っている「被爆体験講話」があり、
動画での視聴、被爆者の方による講話開催、ができます。
詳しくは以下のリンクでご確認ください。
ビデオの視聴はこちら
https://hpmmuseum.jp/modules/news/index.php?action=PageView&page_id=196
講話開催はこちら
https://hpmmuseum.jp/modules/info/index.php?action=PageView&page_id=14
その他目的に合わせた案内
https://hpmmuseum.jp/modules/info/index.php?action=PageView&page_id=26
今回で被爆者の森下弘さんの訪問記は終わりです。
あらためて平和を祈るとともに、
ご紹介いただいたピースヒロシマの関係者の方々、
そして、森下弘さんに感謝いたします。